お久しぶりです!フラッターブログ住人のKeyです!!
前回から投稿が遅れてしまい、申し訳ありません。
今回の記事は前回に引続き「土木の世界〜巨大構造物②編〜」と題して
土木構造物の魅力、中でも歴史的背景について記述していきます。
前回の記事を読んでいただいた方が内容の流れが分かり易いと思いますので、
是非以下のリンクから読んでみてください!⬇️⬇️⬇️⬇️⬇️

では早速、巨大構造物の持つ歴史的背景がその構造物の魅力としてどのように関係しているかお話しします
もし良かったら最後まで読んで欲しいです!!!
土木の歴史

前回の記事でも述べていますが、土木は私たちの生活を支えている地盤であり社会基盤と言われています。
毎日通勤・通学に利用する道路や鉄道も、蛇口をひねれば出てくる水も、
全ては社会基盤が整っているから支障なく使うことができています。
私たちはいつからこんなに便利な生活をしているのでしょうか。
これはネット情報で国土交通省が公開している「道路ネットワークにおける整備と道路交通の課題」に記載されていましたが、
日本の道路に本格的に力を入れて整備し始めたのは戦後とのことでした。戦後で高度成長期に入ったとされる昭和20年には国道の舗装率は13.6%でしたが、平成21年には91.6%とほぼ整備されています。(この数字はあくまで国道です。私たちが普段通勤で車を走らすような道には該当しないかもしれませんが、、)
水道の普及率も道路と同じように昭和25年では26.2%だったのが、昭和55年には90%を超えて、現在は98%となっています。
どうでしょうか。居住地などによって普及が早かった地域や平成以降になってようやくインフラが整った地域もあるとは思いますが、日本全国に満遍なく普及したのが平成初期あたりと考えると、私としては”インフラが整ったのはこんなに最近なのか”と言った印象です。
一方で土木自体の歴史は古く、縄文時代には農業用水を引くために水路を作ったり、弥生時代には石を敷き詰めて道を作ったりと、広い観点で見ればこの時代に土木があったことになります。
昔からあった土木ですがインフラの普及はここ数十年で、今後は普及したインフラ施設の維持管理が大事になりコストがかかると言われています。
だらだら細かい歴史を話しても面白くないので、早速「黒部ダム」が持つ完成までの背景をみてみましょう。
黒部ダムの建設 ~その背景と問題点~

まず、黒部ダムの開設は昭和31年です。
先ほど述べた道路や水道の普及率がまだまだの時代になります。
そんな当時に黒部ダムが建設された背景には深刻な電力不足がありました。
構想があった当時は戦後の経済復興が急速に進んでいる最中で、電力の需要に供給が追いついていない状況下でした。
この問題に電力会社である関西電力がダムの発電機能による解決を求めたのでした。
黒部ダムの地域は、水量も多く水力発電に必要な水の落差も十分なことから適地でした。
しかし日本海側の山奥なので自然条件が厳しく、また道もないことから資材や建設機材などを搬入することすら難しい場所でした。
建設の最初は道づくりから始めなければなりません。
ダム建設以外の工程も加わるにもかかわらず、電力不足の現状を踏まえて7年という期間での建設が必要でした。
当時は今のような機械化も進んでいないため、かなり難しい条件であると思います。
そんな事業の総工費は当時の関西電力の資本金の3倍必要だったという話もあり(最終的には5倍かかったらしいですが)、始まったら建設を止めるわけにはいかない、まさに社運をかけた事業でもあったことになります。
黒部ダムの建設 ~建設過程について~

工事は先ほども述べたように道を造ることから始まりました。
山奥なのでトンネル工事もあり、この工事が最初にして最大の難工事と言われています。
通常なら3年かかると言われたトンネル工事を1年で行わなければならなかったのです。
そのために通常よりも速いペースで作業が行われていました。
現在ではトンネルを掘ると言ったら巨大な円柱型の回転マシンを使用して自動で削っていく方法などがあります。この方法は昼夜運転を続ければ1日に10〜20m程度進みます。
しかし、黒部建設の当時はそのような便利なマシンもなく、人力で掘っていたため1日に4mが限度言われていました。先ほど通常なら3年かかる工事と言ったのはこの4mを基準にしています。なのでそれを1年に短縮することがいかに無茶であったかわかるかと思います。
どのようにして工期短縮を可能にしたかというと必要最大人数で交代制を取り、とにかく掘り進めることだったようです。
その甲斐あって1日に20mも掘り進める日もあったようです。
しかし、工事中に破砕帯(軟弱な地盤)にあたり地盤内の水が噴出し予想外に作業に支障をきたしたり、重労働から倒れたり、やはり大変な工事だったようです。
この工事が終わると今度はダムそのものの工事が始まります。
ダムの工事でも、アーチ式と重力式といった2つの構造方法を合わせたこれまでに無いような工事でした。
それも雪深い季節に行われたり危険な場所での作業であったりで、最終的に171人もの殉職者を出してしまったようです。
作業員はのべ1,000万もの人が動員されたそうで、相当多くの人が関わった工事でもあります。
そんな黒部ダムが建設されたことで電力不足は解消し、当時大阪府の電力需要の半分は賄えるほどの発電をしていたと言われています。
これを機に関西地方の重工業発展が大きく進んだと言われています。
まとめ

いかがでしたでしょうか。
一つのダムが関西の電力不足を救い産業発展に寄与した。これはすごい力だと思います。
その裏には同時に一つの会社の大きな決断と、多くの人の働きがありました。
それを考えると、現地に観光に行った時に「すごいところに立っているのだな」と感動すると思います。
現地に行くと今回の記事の内容のような話が展示されていたり、パンフになっていたりするので是非足を運んでみることをお勧めします。
まただらだらと記述していくだけの記事になってしまい、なかなか纏まってはいませんがこの辺で終わりにします。
黒部の建設の話は建設方法を含め特殊なことも多いので調べてみると面白いと思います。是非。
それではまた次の記事で✋
個人的にオススメ記事になります!!


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